おそらくこの質問に向き合ったことがあるという人は少なくないと思います。
まったくこんなことを考えないまま一生を終える人もいるのかもしれませんが。
または、私のように、この質問に何度か向き合い、人生って何なんだろうと果てしのない答え探しをしてきた人もいるのではないかと思います。
私がこのことに向き合うことになった一番最初の体験は祖父の死です。
ちょうど私が小学四年生になったばかりの頃のエイブリールフールに祖父が亡くなりました。
それまで可愛がってもらった記憶だけがあり、毎日、祖父が入院する病院に学校帰りにお見舞いに行っていたのです。
その日だけ、
近所の幼馴染の誕生日祝いに呼ばれていたため、学校からまっすぐに帰ってきていました。
そして、友人の誕生パーティに出席していたのです。
そんな中、友人の家の一階から大きな声で呼びかける母親の声がしてきました。
「ひろこ、おじいさんが亡くなった!!」と。
私は、最初、その言葉が受け入れられませんでした。
そのあと、母親が上の階に上がってきて、その表情を見て、ただ事ではないんだ、と思いました。
まさに打ちのめされた感覚が広がっていました。
それまで毎日のように病院に行っていたのに、たまたまその日だけ病院に行かなかったのです。
なぜこのタイミングで…
家に戻ると、もうすでに冷たくなって横たわっている祖父が棺桶の中にいました。
それもまた受け入れ難いことでした。
昨日まで、あんなに元氣だったのに…。
(本当は元氣だったかはもう今となっては思い出せませんが、私の中では元氣だった祖父しか思い出せなかったのです)
それで、いったいどこに消えてしまったのだろう…と紋々と考えていました。
お葬式の時は、あまりに悲しくて何も覚えていません。
ただ覚えているのは、押し入れに入って泣きじゃくっていたことです。
それから数日は、祖父がどこに行ったのだろうということばかり考えていました。
死ぬってどういうことなのだろう。
地球から消えてしまうの?
もうどこにもいなくなるの?
子どもなりに、結論として出した答えは、
どこも痛みがない、かゆくもない、苦しくもない、悲しみもない、そういう場所に行ったに違いない
ということでした。
あれから何十年も経って、形而上学に出会ったことで、その本当の答えが分かるようになりました。
まさに、表題の答えが自分の中にあるということも分かってきました。
こういうことが腹落ちしていくと、生きることが楽しくなってきます。
そして、やるべきことが明確になります。
自分自身へのコミットが強くなるとでもいうのでしょうか。
時間が足りないくらいやりたいことがたくさん出てきます。
そして、そういうことが分かってくると、命を粗末にしてはいけないという思いも強くなりました。
これは、自分の命であっても他人の命でもあっても同じです。
誰一人として命を粗末にしていい人はいないのです。
それほどまでに大切なことを決めてきています。
自分なんか、
どうせ、
こんな言葉は禁物です。
それは、単に自分を忘れてしまっているだけです。
小さい箱に自分を閉じ込めすぎてしまったから出てくる言葉です。
あなたがこの地球に来た目的は何ですか?
あなたにしか果たせない役割があるのです。
あなたの決めてきた目的を生きてくださいね。
そこに喜びがあります。
そこに人生のワクワクが待っています。